茨城県古河市で190年続く造り酒屋、青木酒造。私、専務の青木知佐は看護師として2年勤めたのち、2014年に実家の酒蔵に戻ってきました。蔵に戻る前、酒類総合研究所のセミナーで、1ヶ月半の清酒製造技術講習とタンク1本の仕込み実習を行い、初めて日本酒の造り方を勉強しました。それまでは「お酒が米でできているらしい」くらいの知識しかありませんでした。蔵で酒を造る現場に立ち会い、試飲販売や「御慶事の会」に呼んでいただき、お客様と接する中で覚えていきました。

 私が戻ってきたタイミングで日本酒の造り手が変わると、青木酒造の「御慶事」が次々と賞を取るようになりました。2015 年にSAKE COMPETITONという日本酒の品評会で、純米吟醸の部門3位受賞。翌年に海外のインターナショナル・ワイン・チャレンジでグランプリを受賞。地元以外の方に「御慶事」を知ってもらうきっかけになりました。2019年、SAKE COMPETITONで特別賞を受賞し、飛行機の機内での提供も決まりました。

 私が新たに挑戦したのが「二才の醸」という、20代だけで日本酒を造り上げるプロジェクトです。酒蔵を超えて銘柄が引き継がれ、2018年その3代目になりました。小さな酒蔵は大手には値段やブランド力では勝てないので、何か新しいことをやりたいという思いで引き受けました。

 私しか蔵に20代がいないのでどうしようと考えた結果、一般の人に来てもらい田植えからラベル貼りまで行うことにしました。Facebookなどで声を掛けると、大学生や参加した人が拡散してくれ大きな反響がありました。ラベルは皆が集まってできたということが伝わるラベルにしたいと思い、参加した人がそれぞれ1色ずつ紙に塗ったものを、筑波大の学生に組み合わせてデザインしてもらいました。皆で行った2019年6月2日の田植え、9月16日の稲刈りの様子も放映されました。

  仕込みの時期になると、杜氏と呼ばれる酒造りの責任者、箭内和広さんが福島県から到着し、2人の蔵人と半年間住み込みで酒造りに打ち込みます。「二才の醸」について、「新しい感覚が生まれるのではないか。伝統を守り次に伝えるためには、新しいものを取り入れることが大事」と箭内さんは話していました。

 日本酒を身近に感じてもらうため、酒づくりの過程は一般に公開しています。日本酒造りはまず米を洗うところから始まリます。限定吸水といって、秒単位で測りながら米の様子を見て吸水管理していきます。その後品種や磨きによって、杜氏と蔵人が天気などを総合的に判断して米を洗います。米を洗った後1時間蒸し、でき上がった米は空気を当てて風で乾かし温度を下げていきます。

 蒸された米はお酒の原料となる麹菌を繁殖させる部屋へ移動されます。30〜40度くらいの温度で菌を繁殖させ、48時間で米麹が出来上がります。麹菌が繁殖した米は水と混ぜ、小さなタンクで1ヶ月ほど発酵させます。その間毎日サンプルをとって分析し、5分毎に測った温度をクラウド管理しています。

 酒のもとは大きなタンクに移し、さらに水と米を加えて発酵を進めます。ここから1ヶ月、タンクの発酵の進み具合を毎日分析します。タンクの中のもろみのサンプルを取り、杜氏がお酒の中の成分と見た目や香りの出方を総合的に判断して温度管理をしていきます。

 田植えからおよそ半年で日本酒づくりは仕上げに入ります。タンクに入ったお酒のもとをろ過する「搾り」が終わると新酒が完成します。参加者からは「ほかの一般的に売られているお酒とは思い入れが違う。自分のお金で酒をまだ買ったことがないが、これを最初に買おうと思っている」「日本酒が苦手な友達にも薦めやすい」「稲刈りからやっているので感無量」「東京でも飲めるように自分なりに広めていきたい」という声が聞かれました。

 弟の善延は「知佐のおかげでネットワークができた」。母の弥生は「看護師の時に病気のことをわかりやすく説明してきたのがこの仕事でも生きていると思う」。7代目社長の父・滋延は「20代だけでお酒を仕込むというのは口で言うほど簡単ではなく、娘が本当にできるのかなと思っていたが、多くの仲間の協力のもとに娘が陣頭指揮で進めていくことができている。娘もこれによって一つステップアップしたかなと思っている」と話してくれました。

  蔵にオープンに一般の方を呼ぶのは初めてでしたが、体験会や蔵に招待するのは私らしいことだったと感じています。いろいろな方が普段経験できない酒造りに興味を持っているということに驚いたので、体験してもらう機会は続けていきたいと思っています。蔵に戻るにあたり、前職の病棟の師長さんに「あなたにしか出来ない仕事なのだから」と言って送り出してもらったのですが、私にしかできない仕事であることを実感しており、自分が必要とされているのは幸せなことなので、戻ってきて良かったと感じています。今は青木酒造で私ができることを、後々弟が戻ってきたときにバトンタッチできるよう、精一杯やっていきたいと思っています。